【AICHI MEMOIRS】Vol.02 / 開校前・ミラノでの日々

2021-05-14

  2021年4月、ACミランアカデミー愛知の11年目の活動がスタートしました。 小牧市で記念すべき一歩を刻み、2014年に名古屋市(昭和区御器所)、2018年からは豊橋市(東三河校)を開校。 愛知県内3拠点でピッチに立った日数は、10年間で1435日を数えます。 思い返せば、これまでたくさんの子どもたちとの出会いがありました。 スマイルと笑い声にあふれたフィールドから、少しずつ成長していく姿を見守ってきた10年間。   昔の思い出を紐解いていきながら、少しずつ更新していきます。 ぜひご一読ください。 開校から10年間の歴史をじっくりと振り返る、AICHI MEMOIRS”(※メモワール=回顧録)。 思い出をめぐる旅へ出発!  
★バックナンバーはこちらから★ 【Vol.01】2011年・開校記者会見
記者会見終了後から、ありがたいことにたくさんの反響がありました。 うれしい悲鳴を挙げながら開校準備を進める中での大きなミッションの1つに、 ACミランから派遣されるテクニカルディレクター受け入れ準備がありました。  

■舞台はイタリア・ミラノへ

テクニカルディレクターとの対面と、現地視察を兼ねた2週間のミラノ出張を決行。 日本からおよそ12時間の長旅を経て、ミラノ・マルペンサ国際空港に到着したのは2011年3月10日の夜。     2週間滞在するホテルにチェックインし、翌日から始まる現地での準備の日々に備えて早めに就寝しました。  

■未曾有の大災害をイタリアで知る

きちんと目を覚ましたのは現地時間の午前9時半すぎ。正確に言うならば、無理やり起こされました! ホテルのオーナーがドアをノックしてきたのです。 時差ぼけもあり頭ふらふらの状態でドアを開けると、何とも言えぬ表情を浮かべて言いました。
何だ今起きたのか!ついて来い、伝えておくべきことがある
不手際があった心当たりはないものの着の身着のままで後を追うことに。 しかし、次に私にかけた言葉が、眠気を一気に吹っ飛ばしました。  
急げ、お前の国が大変なことになっているぞ!
  フレンドリーな印象の彼の顔が引きつっていたことで、ことの重大さを理解しました。 階段を降り、オーナー家族の居住空間へ。テレビを見たらどこかで発生した地震のニュースが流れています。 この日は2011年3月11日。 東日本大震災が発生したことを、私はイタリア・ミラノで知ったのです。  

■言い知れぬ不安も眠気には勝てず

国際報道映像はその惨状をありのままに伝えていました。 津波が川を遡り、あらゆるものを飲み込みながら陸地を侵食していく。 自然の脅威を見せつけられ、あまりのショックに仕事が手につかなくなったのは言うまでもありません。   部屋に戻ってから1日かけて、さまざまな情報を集めました。 ・福岡にいる家族は無事 ・立ち上げたばかりのアカデミー事務局にも大きな被害なし ・引っ越してきたばかりの自宅も無事 ・自分の周りの友人も無事   倫理的に正しいかどうかは分かりませんが、ちょっとだけホッとしました。 ショッキングなニュースに心を痛め、不安を解消できなかった1日でしたが、 日本時間が深夜を迎える頃には強烈な眠気が襲ってきます。 心が疲弊した1日は「狂った体内時計」が強制終了してくれました。  

■帰るにも帰れない、はがゆさたっぷりの土曜日

明くる3月12日は土曜日。 前日は一日中部屋に籠もっていたこともあり、翌日は気分を変えるために朝から外出することに。   ミラノを象徴するドゥオーモ大聖堂までやってきました。 カーニバルの時期の週末ということで、広場には仮装した子どもたちが楽しそうに駆け回っています。 この日から日本行きのフライトは全便運航見合わせで、帰るにも帰れないという状況に陥っていました。 震災による惨状がまったく見えてこない景色の中を歩いていて、現実から遠い場所にいる自分をとても歯痒く思いました。      

■とあるバールにて、涙を流す

この日は3月12日。 福島第一原発の水素爆発を知ったのは、とあるバールに入りテレビでニュースを眺めている時でした。 思わず「うわっ」と声が漏れた後、日本のことを思うといよいよ涙があふれてきました。 張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れてしまったようで、止めようにもなかなか止められない。   どうにか顔を伏せていたところ、肩にスッと手が置かれた感覚がありました。 顔をあげれば、バールのおっちゃん。この痛みを理解しようとしてくれているように見えました。   ご覧のとおり、テーブルには注文していないはずのコーラとおつまみが。サムズアップして颯爽と仕事に戻っていくのです。 よく考えれば、孤独と不安を共有できる人がいないままでした。 人のやさしさを感じ、とてもほっとしたことを覚えています。   さらに近くでこの様子を見ていた女性が、近づいてきて突然手を握りこう言いました。
あなたの国に起こった災害に、私もとてもショックを受けている。でも、この先この大災害に打ち勝つ日は必ず来るから。さぁ今は涙を拭いて。
実はこの当時、私のイタリア語は十分とは言えず、リスニングにも苦労していたほどでした。 しかし、不思議なことに彼女の言葉はしっかりと聞き取り理解することができたのです。 名も知らぬ女性が与えてくれた大きな愛は私を救っただけでなく、スリープ状態だった脳を叩き起こしてくれました。    

■サン・シーロスタジアムで捧げた祈り

バールでのドラマのようなひと時を境に、精神状態がかなり安定しました。 自分が今イタリアにいる意味を前向きに考え、「できることをやろう」と思えるようにまでなりました。   明くる日曜日は、ACミランのホームゲームへ。 記者会見で来日したフランチェスコさんと再会。ミーティングがてら一緒に観戦しました。 「君たちならできると信じている。少しずつでいいからがんばれよ」と激励の声をもらえたこともありがたかった。   キックオフ前には1分間の黙祷。 犠牲者への祈りも1人だったら苦しかったと思います。スタジアムに居合わせた60,000人とともに捧げた祈り。なんだか心が震えました。  
★2011年3月13日 vs バーリ戦のハイライト映像(エースであるイブラヒモヴィッチは今も健在!)
   

■4月開校に向けて最終段階へ

日本国内では協議を重ねて、当初の予定どおり4月に開校する方針を決定。 クラブ側に「立ち止まり引き下がるのではなく、震災後の社会で希望になれる機会を作りたい」という思いを伝えました。 たくさんの懸念があったと思いますが、ACミランとしては開校はパートナーの判断を尊重するとのこと。自分の口から思いを伝えられて、「こんな時期だけど、イタリアにきた甲斐があった」と思えるようになりました。 この日いただいたカプチーノはとても美味しかったような気がします。    

■語学力の伸びもうなぎのぼり

引き続き日本には帰れない日々。ミラノ市内にあるACミランの提携クラブを視察したりする日々を過ごします。 刺激的な日々でしたが、私自身の語学力の成長もなかなかのものでした!笑 涙に暮れて1つのきっかけを掴んだあの日以来、確実に耳が慣れて口が回るようになってきました。     それもこれも、フレンドリー過ぎるイタリア人たちのおかげ。 たくさんの人が声をかけてくれます。 近隣国から移民の流入も多く、完璧ではないイタリア語が日常に溢れていて、多少のミスには寛容なのがいいところ。 二言目には「お前の国は大丈夫か?」という流れで会話が始まります。 話せば気晴らしにもなるし、練習にもなる。この環境に身を置いたことが何よりの成長の鍵でした。  

■クラブオフィスでのファーストコンタクト

少しだけ時は流れ、3月22日。赴任予定のテクニカルディレクターとの面会の日がやってきました。当初の予定より少し遅くなりましたが、「何はともあれここまできた!」という実感がありました。   ミラノ市内にあるクラブオフィスへと向かいます。アカデミー責任者のミケーレ氏に案内されて、とある会議室へ。そこにいたのがこの男です。     マッテオ・コント、30歳。前任地であるクウェートから帰国したその足でオフィスに駆けつけてくれたみたいでした。 横にいるのは、彼の父・セルジオさん。   上司であるミケーレ氏とおおよそ話はついているようで、開口一番にこう言ってくれました。
いつか日本に行きたいと思っていたんだ。どんな状況であれこのチャンスは掴むべきだと感じたからここにいる
  正直なところ、とてもありがたかった。 報道で伝わる映像や情報に触れれば、「NO」を突きつけることの方がよっぽど簡単だし真っ当だと思っていました。 しかし、自身の人生を俯瞰してみて「一度きりのチャンス」を掴もうとしてくれている。 大きな決心をしてくれた彼のために、こちらも腹を括って一緒に精いっぱい働こうと決めました。   2011年3月22日。すべてはここから始まったのです。  

■日本行きの「影の立役者」の存在

その後は二人でじっくりと話し合い、当時の入会申し込み状況から逆算する形で準備の進め方を協議しました。 トレーニングのオーガナイズ、希望する日本人コーチの人数とその研修内容と日程…などなど。 たっぷりと宿題をもらって、クラブオフィスを後にしました。 当初の帰国日から運航再開が決定したこともあり、私はひと足先に日本に向けて帰国することになります。   準備を進めながら来日を待っていた頃、マッテオファミリーでもひと悶着あったそうです。 お母さんがマッテオの日本行きに強く反対! 泣きながら何度も再考を促したとのこと。   息子を思う母の気持ちとしては当然でしょう。 しかし、最終的に上手くまとめあげ、送り出してあげようと説得してくれたのがお父さんでした。 10年経つ今も、個人的には「開校の影の立役者=セルジオさん」だと思っています。笑     また、日本に向かうまさにその日、ミラノ ・マルペンサ国際空港で搭乗手続きをする際に、航空会社の地上スタッフにこう声をかけられたそうです。
あなたの職業は神父か何かですか?本当に、いま日本に行く必要があるんですか?
  震災直後の日本社会は、世界から見れば未知の恐怖にあふれていた、というのがよく分かります。 見渡す限り唯一のイタリア人乗客で、空席だらけの飛行機に乗って来日したのが2011年4月2日。   今だからお伝えできる話ですが、海外アカデミー部門を束ねるミケーレ氏の当初の意向としては、 マッテオの赴任期間は「開校を軌道に乗せるまでの3ヶ月だけ」という話でした。 それが本人の希望により1年、2年と滞在期間が伸びていきました。 まさか10年後の今も日本で働いているなんて、誰が予想できたでしょうか。笑     まったくもって、人生とは不思議なものです。 何が起こるか分からないからこそ、きっと毎日がおもしろいのですが。
Life is like a box of chocolates. You never know what you’re gonna get.
(人生は箱入りのチョコレートと同じ。開けてみるまで何が起こるか分からない) ※映画『フォレスト・ガンプ / 一期一会』より引用
Text by Akihiro Yamada
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