
★バックナンバーはこちらから★ 【Vol.01】2011年・開校記者会見
記者会見終了後から、ありがたいことにたくさんの反響がありました。 うれしい悲鳴を挙げながら開校準備を進める中での大きなミッションの1つに、 ACミランから派遣されるテクニカルディレクター受け入れ準備がありました。
■舞台はイタリア・ミラノへ
テクニカルディレクターとの対面と、現地視察を兼ねた2週間のミラノ出張を決行。 日本からおよそ12時間の長旅を経て、ミラノ・マルペンサ国際空港に到着したのは2011年3月10日の夜。
■未曾有の大災害をイタリアで知る
きちんと目を覚ましたのは現地時間の午前9時半すぎ。正確に言うならば、無理やり起こされました! ホテルのオーナーがドアをノックしてきたのです。 時差ぼけもあり頭ふらふらの状態でドアを開けると、何とも言えぬ表情を浮かべて言いました。何だ今起きたのか!ついて来い、伝えておくべきことがある不手際があった心当たりはないものの着の身着のままで後を追うことに。 しかし、次に私にかけた言葉が、眠気を一気に吹っ飛ばしました。
急げ、お前の国が大変なことになっているぞ!フレンドリーな印象の彼の顔が引きつっていたことで、ことの重大さを理解しました。 階段を降り、オーナー家族の居住空間へ。テレビを見たらどこかで発生した地震のニュースが流れています。 この日は2011年3月11日。 東日本大震災が発生したことを、私はイタリア・ミラノで知ったのです。
■言い知れぬ不安も眠気には勝てず
国際報道映像はその惨状をありのままに伝えていました。 津波が川を遡り、あらゆるものを飲み込みながら陸地を侵食していく。 自然の脅威を見せつけられ、あまりのショックに仕事が手につかなくなったのは言うまでもありません。 部屋に戻ってから1日かけて、さまざまな情報を集めました。 ・福岡にいる家族は無事 ・立ち上げたばかりのアカデミー事務局にも大きな被害なし ・引っ越してきたばかりの自宅も無事 ・自分の周りの友人も無事 倫理的に正しいかどうかは分かりませんが、ちょっとだけホッとしました。 ショッキングなニュースに心を痛め、不安を解消できなかった1日でしたが、 日本時間が深夜を迎える頃には強烈な眠気が襲ってきます。 心が疲弊した1日は「狂った体内時計」が強制終了してくれました。■帰るにも帰れない、はがゆさたっぷりの土曜日
明くる3月12日は土曜日。 前日は一日中部屋に籠もっていたこともあり、翌日は気分を変えるために朝から外出することに。 ミラノを象徴するドゥオーモ大聖堂までやってきました。 カーニバルの時期の週末ということで、広場には仮装した子どもたちが楽しそうに駆け回っています。 この日から日本行きのフライトは全便運航見合わせで、帰るにも帰れないという状況に陥っていました。 震災による惨状がまったく見えてこない景色の中を歩いていて、現実から遠い場所にいる自分をとても歯痒く思いました。

■とあるバールにて、涙を流す
この日は3月12日。 福島第一原発の水素爆発を知ったのは、とあるバールに入りテレビでニュースを眺めている時でした。 思わず「うわっ」と声が漏れた後、日本のことを思うといよいよ涙があふれてきました。 張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れてしまったようで、止めようにもなかなか止められない。 どうにか顔を伏せていたところ、肩にスッと手が置かれた感覚がありました。 顔をあげれば、バールのおっちゃん。この痛みを理解しようとしてくれているように見えました。
あなたの国に起こった災害に、私もとてもショックを受けている。でも、この先この大災害に打ち勝つ日は必ず来るから。さぁ今は涙を拭いて。実はこの当時、私のイタリア語は十分とは言えず、リスニングにも苦労していたほどでした。 しかし、不思議なことに彼女の言葉はしっかりと聞き取り理解することができたのです。 名も知らぬ女性が与えてくれた大きな愛は私を救っただけでなく、スリープ状態だった脳を叩き起こしてくれました。
■サン・シーロスタジアムで捧げた祈り
バールでのドラマのようなひと時を境に、精神状態がかなり安定しました。 自分が今イタリアにいる意味を前向きに考え、「できることをやろう」と思えるようにまでなりました。 明くる日曜日は、ACミランのホームゲームへ。 記者会見で来日したフランチェスコさんと再会。ミーティングがてら一緒に観戦しました。 「君たちならできると信じている。少しずつでいいからがんばれよ」と激励の声をもらえたこともありがたかった。 キックオフ前には1分間の黙祷。 犠牲者への祈りも1人だったら苦しかったと思います。スタジアムに居合わせた60,000人とともに捧げた祈り。なんだか心が震えました。★2011年3月13日 vs バーリ戦のハイライト映像(エースであるイブラヒモヴィッチは今も健在!)
■4月開校に向けて最終段階へ
日本国内では協議を重ねて、当初の予定どおり4月に開校する方針を決定。 クラブ側に「立ち止まり引き下がるのではなく、震災後の社会で希望になれる機会を作りたい」という思いを伝えました。 たくさんの懸念があったと思いますが、ACミランとしては開校はパートナーの判断を尊重するとのこと。自分の口から思いを伝えられて、「こんな時期だけど、イタリアにきた甲斐があった」と思えるようになりました。 この日いただいたカプチーノはとても美味しかったような気がします。
■語学力の伸びもうなぎのぼり
引き続き日本には帰れない日々。ミラノ市内にあるACミランの提携クラブを視察したりする日々を過ごします。 刺激的な日々でしたが、私自身の語学力の成長もなかなかのものでした!笑 涙に暮れて1つのきっかけを掴んだあの日以来、確実に耳が慣れて口が回るようになってきました。
■クラブオフィスでのファーストコンタクト
少しだけ時は流れ、3月22日。赴任予定のテクニカルディレクターとの面会の日がやってきました。当初の予定より少し遅くなりましたが、「何はともあれここまできた!」という実感がありました。 ミラノ市内にあるクラブオフィスへと向かいます。アカデミー責任者のミケーレ氏に案内されて、とある会議室へ。そこにいたのがこの男です。
いつか日本に行きたいと思っていたんだ。どんな状況であれこのチャンスは掴むべきだと感じたからここにいる正直なところ、とてもありがたかった。 報道で伝わる映像や情報に触れれば、「NO」を突きつけることの方がよっぽど簡単だし真っ当だと思っていました。 しかし、自身の人生を俯瞰してみて「一度きりのチャンス」を掴もうとしてくれている。 大きな決心をしてくれた彼のために、こちらも腹を括って一緒に精いっぱい働こうと決めました。 2011年3月22日。すべてはここから始まったのです。
■日本行きの「影の立役者」の存在
その後は二人でじっくりと話し合い、当時の入会申し込み状況から逆算する形で準備の進め方を協議しました。 トレーニングのオーガナイズ、希望する日本人コーチの人数とその研修内容と日程…などなど。 たっぷりと宿題をもらって、クラブオフィスを後にしました。 当初の帰国日から運航再開が決定したこともあり、私はひと足先に日本に向けて帰国することになります。 準備を進めながら来日を待っていた頃、マッテオファミリーでもひと悶着あったそうです。 お母さんがマッテオの日本行きに強く反対! 泣きながら何度も再考を促したとのこと。 息子を思う母の気持ちとしては当然でしょう。 しかし、最終的に上手くまとめあげ、送り出してあげようと説得してくれたのがお父さんでした。 10年経つ今も、個人的には「開校の影の立役者=セルジオさん」だと思っています。笑
あなたの職業は神父か何かですか?本当に、いま日本に行く必要があるんですか?震災直後の日本社会は、世界から見れば未知の恐怖にあふれていた、というのがよく分かります。 見渡す限り唯一のイタリア人乗客で、空席だらけの飛行機に乗って来日したのが2011年4月2日。 今だからお伝えできる話ですが、海外アカデミー部門を束ねるミケーレ氏の当初の意向としては、 マッテオの赴任期間は「開校を軌道に乗せるまでの3ヶ月だけ」という話でした。 それが本人の希望により1年、2年と滞在期間が伸びていきました。 まさか10年後の今も日本で働いているなんて、誰が予想できたでしょうか。笑

Text by Akihiro YamadaLife is like a box of chocolates. You never know what you’re gonna get.
(人生は箱入りのチョコレートと同じ。開けてみるまで何が起こるか分からない) ※映画『フォレスト・ガンプ / 一期一会』より引用