11月29日(金)、京都大学吉田南キャンパス1号館にて、
京都大学イタリア語学イタリア文学専修のお招きを受けて特別講演を行いました。
ALLA RICERCA DI VALORE AGGIUNTO
– Apprendimento della lingua tramite lo sport –
(邦訳:付加価値を探して – スポーツを通じた語学学習 -)【主催】京都大学イタリア語学イタリア文学専修
【後援】イタリア文化会館・大阪
【開催日時】2024年11月29日(金)16:45~18:15
【会場】京都大学吉田南キャンパス1号館26教室
【参加方法】無料(要事前申込 / italomaniakyoto@hotmail.com へメール送付)
当アカデミー代表の山田晃裕(やまだ・あきひろ)が登壇。
2011年の開校から13年にわたり、コーディネーター兼通訳として
アカデミー発展に貢献してくれた3人のイタリア人テクニカルディレクターをはじめ
ACミランの多くのスタッフと協力しながらプロジェクトを牽引してきました。
また、2012年4月の第1弾を皮切りに、これまでに合計23回のイタリア遠征を企画催行。
延べ人数にして、これまでに280名超の子どもたちが
イタリアの地を踏むサポートをしてきました。
やや特殊なキャリアを歩んできた山田なりの
語学学習ビジョンを学生さんたちに語る機会となりましたが、
以下、時間の都合上伝えきれなかったメッセージも含めて
レポートとしてまとめましたのでご覧ください。
(Text by Akihiro Yamada)
【ぼんやりとした目標を、くっきりさせる手段として】
私個人としては「サッカー選手になれると思ったことは一度もない!」と断言するも、
「サッカーに携わる人生が送りたい」というぼんやりとした目標が思春期にはありました。
実際に大学でスペイン語を専攻し学びながら気づいたのが、
【言語習得を通じたコミュニケーション能力】は、
ぼんやりとした目標を “くっきりとさせる手段” になりうるということでした。
【イタリア語習得は、学習ではなく実践から】
大学時代は外国語学部でスペイン語を専攻し、
学問として英語以外の言語を学ぶ機会に恵まれたわけですが、
ACミランアカデミー愛知で働くようになってからは、
【イタリア語を学習した】という時間はほとんどありません。
というのも、私にとってイタリア語は「実践ありきの言語」だったから。
仕事ゆえ学ぶ時間もそこそこに、まず使うことを求められたこと
そのような環境の中で、【使ってナンボ】の言語習得フローが生まれました。
【模倣から相手のハートをつかむ】
ACミランアカデミー愛知に赴任した、3人のACミラン・テクニカルディレクターたち。
バックグラウンドもパーソナリティも三者三様だったのですが、
【それぞれのいいところを知り、それを組織の中にどう落とし込めるか】
を考えながら働いていました。
学生時代にスペインで1年間を過ごした頃から
コミュニケーションを深めていく際には、
「なんとかコイツを笑わせてやろう」という気持ちが常に働いていました。笑
相手の口から出た表現をすぐさま記憶し、次の機会に使ってみる。
そうやって相手から見た自分へのシンパシーを高めてもらおうと思いながら、
少しずつ【使えるボキャブラリー】を増やしていきました。
(ミラーニューロンの学習プロセスを実践していたということですね)
仕事に関係あるかどうかはさておき、
まずは会話を増やしていくことで相手のハートをつかむ。
そこから、人としての「いいところ」を知ることつなげていったのです。
当然会話の中でサッカーの話になることも多くなるので、
フットボールというスポーツの捉え方や、スポーツ文化の捉え方も
自ずと研ぎ澄まされていきました。
【相互理解を紡ぎ出す】
とはいえ、誰しも母国語ではない言語を使いこなせるわけがない。
それはじゅうぶん分かっています。
イタリア人テクニカルディレクターと
僕を除く日本人の関係各位(コーチ、スクール生、保護者のみなさん)の間には
大なり小なりコミュニケーションの壁ができてしまうのは仕方のないハナシ。
組織の中でこの壁を乗り越えられるオンリーワンの存在だからこそ、
二者の間に入っては、それぞれのキャラクターの「いいとこどり」をして、
相互理解を紡ぎ出すことに尽力してきました。
最終的には、組織の成長につながるような働きかけを
双方にしていくことを心がけていました。
【先が読めない文化だからこそ】
実践のベースを作るための言語学習の必要性を訴えながらも、
「イタリア語習得には、実践が生きる理由は何なのか?」を考えた時に
思い浮かぶ答えの1つに、「イタリアは先が読めない国だから!」というものがあります。
安定した日本社会と比べると、想定外の事態に出くわす頻度も高いだけに、
その場で解決策を導くような対応が求められるシーンが増える。
もはやフットボールと同じ、複雑系の極致にあるようなものです。
私自身もまた日々機転の効く状態に身を置きつつ働いていくうちに、
語学力もそれに引っ張られるように伸びていったように思えます。
【準備とアドリブのハイブリッド】
「アドリブ力は上がるけど、準備を軽視しないように気をつけている」と語る山田。
もちろん、会話の中で分からない単語があればすぐに辞書で調べる
というルーティーンを欠かさず続けてきました。
事後対応ではありますが、私自身はこれも「次への準備」だと思っていました。
もう次の瞬間には自分のボキャブラリーとして使いこなせるようにしたかったから。
準備とアドリブのハイブリッドを意識しながら働いてきたという印象が強いのです。
緻密な準備や経験の場数はプレーの選択肢を増やすことにつながり、
他者の行動を見極めながら、臨機応変に対応しつつ自分自身のアクションを最適化する。
フットボールのプレー選択にも通じるものがありますね。
【イタリア人の口癖から見る問題解決能力】
最後にビジネスシーンのオンオフ問わず、たくさんのイタリア人と接していて
私自身も含めてよく使う3つのフレーズを紹介しました。
Ci penso io.
「(どうにかできると思うから)任せといて」
Mi arrangio.
「(どうなるか分からんけど)やってみるわ」
Vedremo.
「(不確かな未来だし)まぁ、その時考えよう」
カッコ内は「腹の底の部分に潜んでいるかもしれない言葉」とでも言えばいいでしょうか。
いずれの言葉にも「問題は起こるべくして起こるから、出くわしたら解決するもの」という
文化的前提が見て取れます。
あらゆる問題を未然に防ぐことができるに越したことはない。
しかし、すべてを確実に防げるわけではない。
瞬間的な対処を見越した準備をするのがイタリア文化にとっての当たり前。
彼らが有する総合的な問題解決能力は、
フットボールへの造詣の深さと密接にリンクしているように思えます。
まずは、やってみる。
そこにエラーがあって(さらに混乱が起こって)もどうにかする。
サッカーボールがある場所でもない場所でも、
あらゆるエラーを考慮する国民性や文化がイタリアにはあります。
あなたの話す言葉が完璧でなくても大丈夫。
目の前の陽気な彼らだってミスはするし、
他人の小さなエラーなんて気にもならないのだから。